【イキシア(アクアマリン)】団結、誇り高い、秘めた恋

「…………鋼の、」
それは、エドワードにとって特別な呼び名だった。まだ年端もいかない頃に与えられた『鋼の錬金術師』という二つ名は、見事なまでに彼の生き様を簡潔に言い表している。そして彼を『鋼の』と呼ぶ人物のことも、エドワードにとっていつしか特別な存在になっていった。
しんしんと、静かに降り積もる雪のように。あるいは、太陽を浴びて芽吹く草木のように。エドワードは己の身体の成長と共に変化していく感情に、戸惑いながらも自覚せざるを得なかった。これはきっと、世間一般で言うところの『恋』なのだろうと。
「おい、聞いているのか鋼の」
久々の対面に気を取られて、本来の目的をすっかり失念していた。執務机を挟んで椅子に座っているロイに、再度銘を呼ばれたことで我に返り、エドワードは慌てて板張りの床の上にトランクを置き広げ中を探り始める。
革製の古びたトランクの中は特別仕分けされているわけではなく乱雑に物が詰め込まれていて、気が急いて余計に探し物は見つからない。おかしい、提出するための報告書は列車の中で仕上げたのだから、一番目に止まりやすい場所にあるはずなのに。けれど、鞄の中は着替えや手記、旅の途中に土産屋で買ったよく分からない木彫りの像、司令部近くにある行きつけのパン屋で買ったサンドイッチまでもが同じ空間に押し込められている。見つかったとしても、適当に放り込んだ書類が皺ひとつない状態であるはずがない。当然ながら発見した頃には盛大な皺が寄ってしまっていたが、用紙に破れがないだけ救いがある。
早く寄越せと差し出されたロイの掌に催促されて、少しでも見栄えを良くしようと皺伸ばしを試みるも全くの徒労に終わった。しかも香ばしいパンの香りが僅かに移ってしまっている。
恐る恐るロイの方へ視線を移動させれば、予想通りの呆れ顔で深く溜息を吐かれたけれど、エドワードに落ち度がある以上それは致し方がない。
「君ね、どうしてこんなにも無残な状態にできるんだ。書類を鞄に入れるのなら、せめて何かに挟むとかしたらどうだ。それか鞄ではなく封筒に入れて持つとか、」
くどくどと説教じみたロイの台詞は模範的な上官のそれで、毎度そういう態度をされるたびにエドワードは子供扱いをされているのだと感じる。規律を守り、他人のミスを指摘し諭すのは悪いことではない。それが嫌なわけでもない。けれど、いつまでたっても変わらない関係性にもどかしさが募るばかりで。
「あーはいはい、そんなネチネチ言わなくても分かってるって。あんた前世は餅か何かか?」
東の国では新年早々食うらしいぜ、と一息で言葉を締め括る。たしかそれで喉を詰まらせて死亡する事故も起こるんだったっけ。そんな新聞記事の詳細を思い出したところで、ロイがわざとらしく深い溜息を吐いた。
「ネチネチとはなんだ、」
エドワードの口にした単語が気に食わなかったのだろう、ブツブツと文句を漏らしながら皴だらけの書類の中身を確認し始める。
いつもならば十頁にも満たない報告書だが、今回は合計二十頁にもなる大作だ。エドワードの悪筆で難解な文字の羅列を読み解きながら、ロイが軍から報告を受けている内容と矛盾がないかを確認しつつ、不足部分をエドワードが口頭で説明してロイが紙面に書き加えつつ修正していく。
「君が完璧に仕上げて提出してくれさえすれば、ここで書き直しする必要もないんだが」
列車で仕上げなければならなかった理由も、報告書を皺だらけにした理由も全て言い訳にしかならない。だからいつも反論できず口籠ってしまう。下手に口を開けば途端に口喧嘩のようなやりとりが始まってしまうから。
それならば、と。
「…………っ、なにを、」
「驚く顔が見たくて」
執務机に膝を乗り上げ、エドワードはロイの軍服の襟を思い切り引っ掴んだ。相手が反射的に身構えたおかげで互いの鼻先が触れるだけに留まったが、初めて間近に見たロイの容姿に、なるほどこれなら世の女性が色めき立つのも頷けるなとエドワードは内心納得する。
軍人とは思えないほどの滑らかな肌質に、感情の読めない切れ長の瞳を縁取る長い睫毛、閉じられた少し薄めの唇。コロンを付けているのか、それともシャワーを浴びたばかりなのか僅かに石鹸の香りが鼻先を擽る。
あ、と思ったと時には、引き寄せられるように口吻けていた。
「……随分と大胆じゃないか」
「減るもんじゃないだろ」
あんたにとっては、とエドワードは即座に吐き捨てながら背を向け机上に腰を下ろす。喧しく鳴り響く心臓の音を悟られまいと距離をとったのだけれど、洞察力の高いロイのことだから内に秘めた感情も何もかも全てを見透かしているに違いない。
息を潜めるようにゆっくりと、エドワードは体内に溜め込んだ空気を体外に吐き出した。
「悪いが、君は対象外だ」
これは、いわゆる牽制なのだろう。ロイにとっての『対象外』が恋愛なのか、はたまた性的なものなのかどうかを判断するには材料が乏しすぎる。しかし、先ほどのエドワードの行動が逆効果だったということは紛れもない事実だ。
「なーんだ、あんたにハジメテを捧げてやろうと思ったのに」
無理に虚勢を張っても解決に繋がるわけではないし、関係を修復できるわけでもないと分かっているのに、ロイ相手になると途端にエドワードは意固地になってしまう。上手く取繕えず、思ってもいないことを口にするのは昔からの癖とも言える。だから、妙な雰囲気になってしまった今の状況を好転させられる自信もエドワードにはなかった。
キスすら数分前に体験したばかりの年端もいかない少年にしてみれば、恋の駆け引きなど未知の領域だ。性の知識だって、賢者の石を得るために立ち寄った酒場で耳にした体験談や、裏路地で客引きに耳元で囁かれた下世話な雑学ばかりだし、それこそ興味本位で開いた文献の知識だったりもする。
その中でも、ロイ・マスタングに関する噂は耳聞こえのいい内容のものばかりではなかったけれど、エドワードにとって他人から得た情報などどうでも良かった。
「成人してもまだ童貞だったら、考えてやらんこともない」
背後からの声は酷く落ち着いて聞こえたが、ロイの発した単語に衝撃を受けたエドワードは上手く言葉を返すことができなかった。童貞だったら、ということは。その台詞の意味を理解した途端、思わず喉が音を立てる。
どうせ、この男に恋だの愛だのを囁いたところで軽くあしらわれるに決まっている。夜のお相手だって、きっと困っていないだろう。けれど、どうしたって期待してしまう。エドワードはロイの言動一つ一つに一喜一憂してしまうから。
「…………アホらし」
つくづく救いようのない馬鹿な人間だ、そうエドワードは自分を嘲笑った。