【ハナカイドウ】温和、美人の眠り、艶麗

「ハボック少尉、そろそろマスタング大佐を連れ戻してきてくれないかしら」
執務室の壁に掛けられた時計を見上げながら溜息混じりにそう要請する彼女は、捜索対象であるマスタング大佐の副官ホークアイ中尉だ。彼女がハボックに対して捜索依頼を出すのは日常茶飯事で、今日も今日とて彼らの上官は執務を放り出して行方を晦ませている。
「…………了解っス」
もうすぐ昼飯なんだけどなぁ、とハボックはぼんやり考えながら書きかけの報告書を残して執務室から出た。
そういえば、定例会議がいつも早朝に組まれている理由をお偉方の高齢化のせいにしていたっけ。とはいえ、起き抜けで機嫌の悪いロイを毎朝送迎しているハボックは、彼が低血圧で朝に弱いことを知っている。ゆえに会議が近付くと定期的に繰り返されるその愚痴も、適当に聞き流すことにしているのだ。きっと今だって会議はとうに終わっていて、どうせどこかで惰眠を貪っているに違いない。まったく、サボりたいのはこっちのほうだってのに。ハボックはそんな風に不満の言葉を巡らせながら恒例のルートを辿り始めた。
ロイの潜伏場所は幾つかあるのだが、ハボックは毎度それらを執務室をスタート地点に据えて順に捜索していく。まずは執務室から一番近い仮眠室、しかし使用中の立て札はなく、念のため室内を確認したが誰も使用していなかった。残念に思いながらも、探し始めて数分で発見できるわけもないじゃないかと、己を納得させて次の目的地へ足を向ける。次は給湯室、ここでロイは時々珈琲を飲みながら女性尉官に囲まれている。が、そこには女性尉官が二人噂話に花を咲かせているだけでロイの姿はなかった。しかたなく目撃情報収集を目論むも、残念ながら不発。せっかくだからと珈琲を二杯淹れ、次の目的地へ。次は書庫なのだが、唯一の出入り口の扉は施錠されたままだし、中に人の気配もない。もしもロイが中にいて、居眠りしているのなら話は別だが、錬金術でも使わない限り室内からの施錠はできないので、多分ここも外れなのだろう。それに面倒くさがりのロイがそこまでするとも思えない。
「しゃーない、ラストいくかぁ〜」
盛大な独り言を吐き出して、ハボックは陽の射し込んだ温かな廊下を進んでいく。換気のために開かれた窓から風に乗って入り込んでくる新緑の匂いと、カップから立ち込める珈琲のほろ苦さとが混ざり合って鼻腔が擽られる。ああ、もうすっかり春だ。おかげでハボックの内に溜まったストレスも、僅かながら軽減されたように思う。
最後は中庭だった。手入れされた芝生に寝転がり、仰向けになった顔面上に会議の資料だろう紙の束を乗せて、目的の人はそこにいた。
春眠暁を覚えず、とはよく言ったものだ。ロイの場合は、春でなくとも季節関係なく都度体現しているのだけれど。
「大佐ぁ、いいかげん職務に戻ってください」
しかし返事はない。規則正しく上下する胸元を見るかぎりは眠っているのだろうが、眠りの浅いロイにしては珍しいなと一つ溜息を吐いてから、ハボックはまだ湯気の立つカップを相手の顔の付近に置いた。あわよくば、珈琲の香りで目を覚ましてくれたらいいと考えたからだ。
「…………んん、」
ほら、効果覿面じゃないか。そう思いながらロイに視線を向けると、身動ぎで資料がずるりと芝生に落ちる。露わになった顔はいつも見慣れたロイ・マスタングその人なのに、閉じられた瞳を縁取る長い睫毛や、普段嫌味ばかりが紡がれる唇から立てられる寝息に、なんだかいたたまれない気持ちになってしまった。
普段の気の抜けた立ち居振る舞いも、言動も、全ては身内であり気を許してくれているのだと分かっている。だからこそ、いつ誰が来るかも分からない場所で容易く隙を見せるのはどうかと思う。ロイの歳で大佐の地位であれば、それを面白く思わない連中も多いのだ。
「…………はあ、」
依然として目を覚ましそうもない様子に、手持ち無沙汰から多少ぬるくなった珈琲を一口飲み下す。眠っていればいい男なのだ、または、黙っていれば。隊を率いて命令を下しているときなんかは、別人のように格好がいい。そりゃあ、ロイが本気で甘い言葉を囁やけば女性は簡単にコロッと落ちるだろう。寧ろ、そのさまを何度も目撃してきた。対して男性陣からは妬み嫉みを向けられやすいのだが、相手が将軍クラスともなれば上手く懐に入り込んで懐柔してしまう。そういうところは尊敬できなくもないが、女性でも将軍でもないハボックが優遇されるわけもなく。
「…………どうした、溜息なんかついて」
せめて愚痴やら嫌味やらを受け止めるだけの壁にはなりたくないな、と思考が行き着いたところで傍らから欠伸混じりの台詞が投げかけられる。
「どうしたじゃないですよ。もう昼過ぎてますよ」
「もうそんな時間か」
軍服のポケットから出した銀時計を確認して、ロイは慌てて身体を起こした。見ると、後頭部に情けない寝癖ができてしまっている。指摘すべきか否かで悩んだが、盛大な欠伸を噛み殺すことなく見せつける相手に気を使っても意味がないと結論づけて、珈琲で温まった右の掌で撫でつけてやる。癖のない黒髪ストレートだから、そう時間もかからずに寝癖は直るだろう。
「冷めきる前にどうぞ。飲み終わるまでは付き合いますから」
春の陽気と、温かな珈琲と、会議の愚痴を零すロイのテノールに、ハボックは小さく欠伸をした。